【Lesson4】The Story of Sadako(佐々木禎子さんの物語)【和訳】
学校で習う表現と違う場合がありますので参考程度に見てください。単語は複数意味がある場合がありますが、この単元での使い方をメインに載せています。
GET(Part1)・和訳
修学旅行で訪れた広島で、丘先生が原爆ドームについて説明しています。
この建物は,1945年に破壊されました。
私たちはそれを原爆ドームと呼んでいます。
そのドームは私たちに戦争の悲劇を思い出させます。
このことは私たちを悲しくさせます。
そのドームはまた、平和への希望を表現しています。
私たちは平和の大切さを覚えておくべきです。
GET(Part2)・和訳
平和記念資料館を見学したあと、エマが丘先生と話しています。
でも戦争の現実を見ることは私たちにとって大事なことなんだ。
USE-Read・和訳
佐々木禎子さんのことを知っていますか。彼女がどんな人生を送ったのかに注意しながら読んでみよう。
禎子さんのお話
1,2段落
それは一つの閃光で始まりました。
1945年8月6日、一つの原子爆弾が広島に落とされました。
その爆弾は街を破壊しました。
少なくとも13万人がその年の終わりまでに亡くなりました。
2歳の佐々木禎子さんは生き残ったのです。
小学校では,禎子さんは速く走ることができました。
彼女は特に体育の授業が好きでした。
彼女は大きくなったら体育の先生になりたかったのです。
6年生の時に、彼女は学校の運動会でリレーチームの選手に選ばれました。
そのことは彼女をとても嬉しい気持ちにさせました。
3,4段落
運動会の約1か月後、禎子さんは突然病気になりました。
医者たちは彼女の病気は爆弾からきていると考えました。
「彼女が一年以上生きることは難しいだろう」とある医者は禎子さんの両親に言いました。
病院で禎子さんはいくつかの紙の鶴を受け取りました。
彼女は「千羽の鶴を折れば、病気がよくなる」という風習を思い出しました。
彼女はたくさんの鶴を折りました。
彼女はそれらに健康への願いを込めて折りました。
彼女は希望を失いませんでしたが、病院を出ることは決してありませんでした。
禎子さんの人生はほんの12歳のときに終わってしまったのです。
5段落
禎子さんが亡くなったあと、彼女の死を受け入れることは彼女の友人たちにとって難しいことでした。
彼らは禎子さんのために像を建てました。
その像はいまでも広島の平和記念公園にあります。
毎年、世界中から多くの人が広島に折り鶴を送ります。
その折り鶴は禎子さんと平和のためにあります。[/box04]
USE-Write・和訳
準備中